#Ingress #バックストーリー

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. 柚子さんにより、NL-PRIME関西便がなぜ長岡京市を目的地としているのかという問題提起がなされ、「NL-PRIME 第4段階調査報告書」に掲載されている「候補者8」の見たヴィジョンがその理由ではないかとの推測が行われている。
https://plus.google.com/+柚子ゆず/posts/8fNphcoekTM

「NL-PRIME 第4段階調査報告書」は、こちらに掲載されている文書である。
http://investigate.ingress.com/2016/06/05/nl-prime-revealed/
日本語版文書
http://investigate.ingress.com/wp-content/uploads/2016/06/NLPrime-j.png
英語版文書
http://investigate.ingress.com/wp-content/uploads/2016/06/NLPrime-e.png

. 柚子 さんは、候補者8の以下のコメントが長岡京を指しているのではないかと推測した。
1300年前にあった、ですね。庭園。平和な。その時、火が...。二人が死にました。彼らを感じます。

このコメントが重要であるという点については完全に賛同するし、このコメントに着目されたのは慧眼であると思う。しかし、私はこれは長岡京ではない可能性が高いと考えている。以下、検証する。


候補者8の幻視は長岡京なのか

まず、. 柚子 さんは
>長岡京が平安京に遷都された理由にも怨霊や災害の影響など候補者8の証言と合致する部分が存在する
と述べている。確かに、長岡京は「呪われた都」であった。

平城京から長岡京への遷都を強力に推進した人物は、中納言・藤原種継である。しかし、784年に遷都が断行されて間もなく、種継は暗殺される。矢で射られたという。

種継暗殺に関与したとして十数名が斬首または流罪となった。首謀者とされた大伴家持(万葉集の編纂者とも言われる)は暗殺事件の一か月前に亡くなっていたが、官籍からも除名された(後に復帰)。また、関与が疑われた皇太弟・早良親王は廃太子となり、淡路国へ配流される途中の河内国高瀬でハンストの末の憤死に至る。

その後、桓武天皇周辺の人物が次々と病死し、都では天然痘が流行った。また洪水などの災害もあり、早良親王の祟りであるとされたのである。早良親王は崇道天皇と追号され、陵も作られたが、結局、長岡京遷都から10年後、794年に平安京へ遷都することになる。

だが、この事実は、候補者8の幻視とは食い違っている点が見られる。「二人が死にました」とあり、これは中納言種継と早良親王かもしれないと思える。だが、二人が亡くなったのは同時ではないばかりか、立場も逆である。さらに重要な点として、「火」で亡くなったのではない。種継は矢、早良親王は餓死または憤死、処刑された者もすべて斬首であって火刑ではないのである。

さらにいえば、長岡京に都があった784年~794年は、概数で言えば1300年前より1200年前という方がふさわしい。

以上により、私は、この候補者8が幻視したのは長岡京遷都にまつわるできごとではないと考える。


1300年前という数字

およそ1300年前というのは、平城京に遷都された710年前後を指すと考えられる。つまり、飛鳥時代末から奈良時代前半がその範囲となるだろう。

ここで、もう一度候補者8の言葉を再検討したい。
ここにはポータルも存在する。いや、1300年前にあった、ですね。庭園。平和な。その時、火が…。二人が死にました。彼らを感じます。
英文ではこうなっている。
There's a Portal here, too. Well, there was, 1300 years ago. A garden. Peaceful. Then, a fire. Two died. I can sense them, too.

1300年前にポータルが存在した(が、現存するかは不明瞭)。それは庭園である。平和な。そして、火。二人が死んだ。それも感じることができる。

この候補者8の幻視について、「1300年前にここにポータルが存在した」という情報と、後半の火による死のヴィジョンは切り分けて考えた方がいいのではないかと思われる。すなわち、1300年前からここはポータルであった。そして、その後のいつかは不明だが、その場所で二名が焼死する事件があった。英文の"Then"を和訳で「その時」と訳したのはまずいと思う。XMに反応した状態にある候補者8が、ポータルがある、いや、1300年前にあった、庭園だ、平和だ、それから火……と幻視したのであって、それがすべて1300年前の出来事であるとは断ずることができないと思われる。


長岡京市内の史跡の検討

以上を踏まえ、さらに拡大して、長岡京市にある史跡を検討してみよう。

第一の候補は乙訓寺である。聖徳太子の建立と伝えられるが、少なくとも奈良時代には創建していたと考えられる。1300年前には存在していた可能性がある。また、早良親王が配流の前に幽閉された場所であるとも伝えられている。しかし、ここで炎上・焼死事件が起こったという記録はない。

第二の候補は現在の長岡天満宮である。天神様こと菅原道真が太宰府へ左遷させられる途上、この地において名残を惜しんだと伝えられる。だが、当然ながらそれは901年、今から1100年前のことである。境内の八条が池が築かれたのも17世紀のことだった。もちろん、ここも炎上・焼死には絡んでいない。

第三の候補は光明寺である。平家物語の「敦盛最期」の段に登場することでも有名な熊谷次郎直実は、後に出家して法然上人の弟子として蓮生という法名になった。この蓮生が建てた寺が光明寺である。創建は1198年、今から800年前のことである。

第五の候補は勝龍寺城である。勝龍寺の創建は804年、空海による。その近くに建てられた勝竜寺城は、二度、大きな合戦に巻き込まれた。一度目は1568年、織田信長が三好三人衆の一人・岩成友通を攻めた「勝龍寺城の戦い」である。しかし、最終的には降伏・開城という結果になっており、城は燃えていない。もう一度は、1582年、本能寺の変のときである。光秀は山崎の合戦で秀吉に敗れ、まずこの勝龍寺城に入った。だが、光秀は秀吉の追撃を受けて坂本城へ逃げ、その途中で落命した。なお、光秀の娘・ガラシャは細川家に嫁いだとき、この城で盛大な結婚式を挙げたという。いずれにしても、この勝龍寺城が炎上したという事実はない。

したがって、候補者8の幻視は長岡京市ではない、というのが私の結論である。


候補者8の幻視場所を推察する

では、他にどこが考えられるだろうか。

条件は3つ。「1300年前(飛鳥時代後半から奈良時代前半)にポータルであった」「庭園のように見える」「二人が焼死する事件があった」ということである。

結論から言えば、私が現在最有力候補と考えるのは 「難波宮・大坂城」 である。

仁徳天皇以来、飛鳥時代には難波宮があった(前期難波宮)。726年、聖武天皇は新しい難波宮の造営を命じ、744年には難波京への遷都が行われる(宮は天皇の在所、京は都を指す)。翌年には首都は平城京に戻ることになるが、港湾都市として難波京は栄え続けた。

難波宮跡公園は大阪城公園のすぐ南にある。ここから四天王寺に至る上町台地全体が難波京の範囲であったと推測されている。

そして、この上町台地の北端に建造されたのが大坂城であった。大坂冬の陣・夏の陣により豊臣氏は滅亡する。その最後において、大坂城が炎に包まれ、豊臣秀頼・淀君が亡くなったのは誰もがよく知ることであろう。

すなわち、「1300年ほど前にすでに難波宮としてポータルが存在し、大坂夏の陣で秀頼・淀君が炎の中で亡くなった」と、見事に条件に合致しているのである。WILLERバスターミナル大阪梅田からはやや離れているものの、大阪城付近をNL-PRIMEが通過した可能性は十分に考えられる。そこで、候補者8が幻視したのは今の大阪城付近ではないかという説を提示したい。

残念ながら、この説においては「なぜ長岡京市なのか」という理由は見いだせない。だが、追って何らかの資料が提示されるものと期待している。
http://investigate.ingress.com/wp-content/uploads/2016/06/NLPrime-j.png

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